ISBN:4102500618 文庫 堀口 大学 新潮社 1951/07 ¥489
この本を紹介するが、この堀口大学訳のジャム詩集は現在、入手が困難ではなかろうか?平成6年の新潮文庫復刊の時、僕はこの本を入手した。ジャムの本は、同じ堀口大学訳で「月下の一群」という訳詩集が出ていたが、絶版になっているようだ。また、全集が青土社から出ていたが、こちらは大岡信訳であったと記憶する。その全集も学生時代に一読したが、その訳よりも堀口大学の訳の方が、僕の胸にはよく響く。この書物も絶版だろうか? ジャムは日本では不遇だ。
もしもお前が
私の心の底のこのかなしさを/もしもお前に知ることができたら/お前はそれを病みほうけ/青ざめてやせ細った顔つきの/哀れな一人の母親の/やがて死に行くと知って/末の子のために/末の子にやるために/安物のおもちゃを/なでまわし なでまわし/なでまわしている/一人の貧しい母親の/涙に比べることだろう
ジャムの詩は、祈りのように僕には響く。フランス象徴派という大きな流れに含まれない、また身を寄せない、いや、その流れとはどこか遠いところから聴こえてくるような、幼子の祈り、原初的な祈り。地面に両足で立ち、健康的で、肉感的。山奥にある岩清水の清廉さに似た、透明感。また、小動物たちや天使、神を歌う軽やかさ。
特に
「親しきサマンよ、」で始まる哀歌はおすすめ。詩の好きな方にはぜひ、一読していただきたい。
この本を紹介するが、この堀口大学訳のジャム詩集は現在、入手が困難ではなかろうか?平成6年の新潮文庫復刊の時、僕はこの本を入手した。ジャムの本は、同じ堀口大学訳で「月下の一群」という訳詩集が出ていたが、絶版になっているようだ。また、全集が青土社から出ていたが、こちらは大岡信訳であったと記憶する。その全集も学生時代に一読したが、その訳よりも堀口大学の訳の方が、僕の胸にはよく響く。この書物も絶版だろうか? ジャムは日本では不遇だ。
もしもお前が
私の心の底のこのかなしさを/もしもお前に知ることができたら/お前はそれを病みほうけ/青ざめてやせ細った顔つきの/哀れな一人の母親の/やがて死に行くと知って/末の子のために/末の子にやるために/安物のおもちゃを/なでまわし なでまわし/なでまわしている/一人の貧しい母親の/涙に比べることだろう
ジャムの詩は、祈りのように僕には響く。フランス象徴派という大きな流れに含まれない、また身を寄せない、いや、その流れとはどこか遠いところから聴こえてくるような、幼子の祈り、原初的な祈り。地面に両足で立ち、健康的で、肉感的。山奥にある岩清水の清廉さに似た、透明感。また、小動物たちや天使、神を歌う軽やかさ。
特に
「親しきサマンよ、」で始まる哀歌はおすすめ。詩の好きな方にはぜひ、一読していただきたい。
ISBN:4042089267 文庫 米川 和夫 角川書店 2004/05 ¥420
世界的な作家として知られるトルストイ。彼の作家としての軌跡は「戦争と平和」「アンナカレーニナ」で絶頂を向かえる。その後、彼は、「イワンの馬鹿」をはじめとするロシア民話など、素朴な信仰を賞賛する物語を描く。ここにトルストイの謎がある。
本書は著者58歳のときに執筆されたものである。
これから、この書を読もうとする読者の中で、もしもあなたが、自らに満ち足りていると感じているならば、この書の中に、これといったものを見いだすことはまれだろう。また、この書は、ひどく混乱したものに見えてしまうかもしれない。理路整然と書かれているとは言いがたいと、しばしば指摘されているのだから。
「動物的生存のはかなさとまやかしを知り、愛というただ一つの真の生命を自分のうちにとき放すことだけが人間に幸福をもたらすのである」
「人生というものを解しない人々の活動は生涯、生存競争や、快楽の追求、苦痛の回避、のがれられぬ死からの逃避に向けられている」
この書は、今まで送ってきた自分の時間の総体にふと疑問が湧いた時、道に往き惑った時、また、途方に暮れた時、読むべき書物かもしれない。そこに、人生に処するための明確な答えを見つけることは、できないかもしれない。が、ある一つの道標、道しるべとしては、役立つかもしれない。
トルストイという作家、また人間は、一個の天才がいかにすれば、凡人として素朴で調和的な人生を送ることができるのかということに、恐ろしいまでに心血を注いだ、たぐいまれなる巨大な道のりだから。
世界的な作家として知られるトルストイ。彼の作家としての軌跡は「戦争と平和」「アンナカレーニナ」で絶頂を向かえる。その後、彼は、「イワンの馬鹿」をはじめとするロシア民話など、素朴な信仰を賞賛する物語を描く。ここにトルストイの謎がある。
本書は著者58歳のときに執筆されたものである。
これから、この書を読もうとする読者の中で、もしもあなたが、自らに満ち足りていると感じているならば、この書の中に、これといったものを見いだすことはまれだろう。また、この書は、ひどく混乱したものに見えてしまうかもしれない。理路整然と書かれているとは言いがたいと、しばしば指摘されているのだから。
「動物的生存のはかなさとまやかしを知り、愛というただ一つの真の生命を自分のうちにとき放すことだけが人間に幸福をもたらすのである」
「人生というものを解しない人々の活動は生涯、生存競争や、快楽の追求、苦痛の回避、のがれられぬ死からの逃避に向けられている」
この書は、今まで送ってきた自分の時間の総体にふと疑問が湧いた時、道に往き惑った時、また、途方に暮れた時、読むべき書物かもしれない。そこに、人生に処するための明確な答えを見つけることは、できないかもしれない。が、ある一つの道標、道しるべとしては、役立つかもしれない。
トルストイという作家、また人間は、一個の天才がいかにすれば、凡人として素朴で調和的な人生を送ることができるのかということに、恐ろしいまでに心血を注いだ、たぐいまれなる巨大な道のりだから。
ファウスト〈第一部〉
2005年5月29日 読書
ISBN:4003240626 文庫 相良 守峯 岩波書店 1958/01 ¥693
もしも人生をやり直せるなら! と誰もが一度は考え、頭に浮かべることではなかろうか? ひょっとすると、この文章を読んでいる人の中に、それを痛切に望んでいる人がいるかもしれない。
もしも、眠ろうとして、部屋の明かりを消したとき、あなたの傍らに悪魔がやってきて、こう言ったとしたら?
「あなたを若返らせてやろう。そして、あなたが望むことすべてを、私がかなえてやろう。そして、あなたが人生に『満足した』と心の底から言った時、あなたの魂を、わたしがいただくことになるのだが…。それでよければ…」。
「頼む、若返らせてくれ! お願いだ!」と、あなたは、言うだろうか?
きっと、あなたは、今まで生きてきた人生を改めて思い返しながら、いや、まてよ。嫌なこともあったし、悲しいこともあった、こうして年も取ってしまったけど、案外、自分の人生って、いい人生だったのではと考え、悪魔と契約を交わすことをためらうのではなかろうか?
いつだって、我々は自分の人生に満足しているものだ。
だが、ここに不屈の男がいた。男の名はファウストと言った。書斎に閉じこもり、若き頃から真理の探究に自分の人生のすべてをかけてきた男。しかし、今や年老い、自らの研究は何の成果もなく、無駄に終わったと苦悩する男。
ファウストは、悪魔メフィストファレスとの契約を躊躇することなく交わし、自らの書斎から旅立つ。
若返ったファウストは、可憐な娘グレートヒェンへの恋に落ち…、そして…。
名作というわりに、読まれていない作品ではなかろうか?
集英社文庫から池内紀氏の名訳で、今や、手軽に読めるいい時代だ。ああ、これが15年ほどはやかったら。
もしも人生をやり直せるなら! と誰もが一度は考え、頭に浮かべることではなかろうか? ひょっとすると、この文章を読んでいる人の中に、それを痛切に望んでいる人がいるかもしれない。
もしも、眠ろうとして、部屋の明かりを消したとき、あなたの傍らに悪魔がやってきて、こう言ったとしたら?
「あなたを若返らせてやろう。そして、あなたが望むことすべてを、私がかなえてやろう。そして、あなたが人生に『満足した』と心の底から言った時、あなたの魂を、わたしがいただくことになるのだが…。それでよければ…」。
「頼む、若返らせてくれ! お願いだ!」と、あなたは、言うだろうか?
きっと、あなたは、今まで生きてきた人生を改めて思い返しながら、いや、まてよ。嫌なこともあったし、悲しいこともあった、こうして年も取ってしまったけど、案外、自分の人生って、いい人生だったのではと考え、悪魔と契約を交わすことをためらうのではなかろうか?
いつだって、我々は自分の人生に満足しているものだ。
だが、ここに不屈の男がいた。男の名はファウストと言った。書斎に閉じこもり、若き頃から真理の探究に自分の人生のすべてをかけてきた男。しかし、今や年老い、自らの研究は何の成果もなく、無駄に終わったと苦悩する男。
ファウストは、悪魔メフィストファレスとの契約を躊躇することなく交わし、自らの書斎から旅立つ。
若返ったファウストは、可憐な娘グレートヒェンへの恋に落ち…、そして…。
名作というわりに、読まれていない作品ではなかろうか?
集英社文庫から池内紀氏の名訳で、今や、手軽に読めるいい時代だ。ああ、これが15年ほどはやかったら。
新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論
2005年5月29日 読書
ISBN:409389051X 単行本(ソフトカバー) 小林 よしのり 小学館 2000/10 ¥1,260
「近くて遠い国、韓国」なんていうコピーが昔あったような? コリアン航空? 韓国、北朝鮮、中国は本当に「近くて遠い国」だと考えざる得ない。反日運動をしたり、靖国問題だ、それに便乗して歴史問題だとかなんとかいいながら、謝罪しろと始終言っている(それに対して謝罪する日本政府にも問題あるけれども)。
ミサイルを日本に向けながら、日本からのODAでミサイル作る国。いつまでも歴史認識が、歴史教科書がとつつきながら自らの国には歴史教科書は国定教科書一種類しかもたない国。ほとんど崩壊しているにもかかわらず、国民が飢餓に苦しんでもミサイル、麻薬、偽札作ってる国。それらに頭下げて先祖を売り続けている国。
けれど、ほんとうに「近くて遠い国」とは台湾だ。
満州(今の中国東北部)、朝鮮、台湾は60年ほど前、日本の領土であったり、また日本と関係の深い地域であった。思い起こせば学校の歴史では朝鮮半島、中国の歴史はそれなりに習うけれども、台湾の歴史ってほとんど習わない。
なぜだろう?台湾の歴史、知ってますか?
台湾は日本領になるまで、ほとんど未開の地だった。風土病と無法がはびこる地域で、そこを領土にした日本は、懸命にインフラ整備を行った。学校を建て、上水道をひき、田畑を開墾し、保健所を作り、産業を育成した。これも植民地政策だ。
搾取どころか、時間と金のかかるインフラ整備をする植民地政策なんてする国があるのだろうか? 西洋列強のアジア植民地政策と日本のそれとを比較する研究が発表されていないのが不思議だ。
と偉そうなことを書いている私だが、本書を読むまで、台湾の歴史をまったく知らなかった。
目からウロコという諺があるが、まさにそれ。
台湾には、今の日本人が戦後失ってしまった「何か」がある。その何かとは?
台湾の歴史は当然として、社会学、歴史、日本とは何か、また日本人とは、その先人とは? といった疑問を一冊の本で解決できる、本は、これのみ。
特に団塊の世代に読んでいただきたい。
「近くて遠い国、韓国」なんていうコピーが昔あったような? コリアン航空? 韓国、北朝鮮、中国は本当に「近くて遠い国」だと考えざる得ない。反日運動をしたり、靖国問題だ、それに便乗して歴史問題だとかなんとかいいながら、謝罪しろと始終言っている(それに対して謝罪する日本政府にも問題あるけれども)。
ミサイルを日本に向けながら、日本からのODAでミサイル作る国。いつまでも歴史認識が、歴史教科書がとつつきながら自らの国には歴史教科書は国定教科書一種類しかもたない国。ほとんど崩壊しているにもかかわらず、国民が飢餓に苦しんでもミサイル、麻薬、偽札作ってる国。それらに頭下げて先祖を売り続けている国。
けれど、ほんとうに「近くて遠い国」とは台湾だ。
満州(今の中国東北部)、朝鮮、台湾は60年ほど前、日本の領土であったり、また日本と関係の深い地域であった。思い起こせば学校の歴史では朝鮮半島、中国の歴史はそれなりに習うけれども、台湾の歴史ってほとんど習わない。
なぜだろう?台湾の歴史、知ってますか?
台湾は日本領になるまで、ほとんど未開の地だった。風土病と無法がはびこる地域で、そこを領土にした日本は、懸命にインフラ整備を行った。学校を建て、上水道をひき、田畑を開墾し、保健所を作り、産業を育成した。これも植民地政策だ。
搾取どころか、時間と金のかかるインフラ整備をする植民地政策なんてする国があるのだろうか? 西洋列強のアジア植民地政策と日本のそれとを比較する研究が発表されていないのが不思議だ。
と偉そうなことを書いている私だが、本書を読むまで、台湾の歴史をまったく知らなかった。
目からウロコという諺があるが、まさにそれ。
台湾には、今の日本人が戦後失ってしまった「何か」がある。その何かとは?
台湾の歴史は当然として、社会学、歴史、日本とは何か、また日本人とは、その先人とは? といった疑問を一冊の本で解決できる、本は、これのみ。
特に団塊の世代に読んでいただきたい。
若きウェルテルの悩み
2005年5月28日 読書
ISBN:4003240510 文庫 竹山 道雄 岩波書店 1978/12 ¥483
「世界の中心で愛を叫ぶ」という本が昨年300万部以上売れたそうだ。なにやら世間では、純愛ブームらしい。が、テレビや週刊誌をにぎわしているのは、自分の性生活を露骨に告白するOL、相変わらず街角で行われる素人の援助交際がプロの風俗嬢の職域を荒らし、大の大人がわいせつ行為で逮捕され、少女を監禁する変質者が後をたたない。
そもそも純愛などというものがブームになること自体、おかしいことではないか? 純愛は、思春期に特有のものではなかろうか? 一過性のものだ。おたふく風邪とか、はしかとかとどこがちがうのか? 純愛自体が、ひとつの青春文学みたいなもので、だれもが自分だけの自分だけが体験した一つの純愛物語を持っているのではなかろうか? 誰かのことを思って、胸が苦しくなるとか、夜も昼もある一人のことを想い続けるとか。そういった自分の過去のたった一つの自分だけの物語を大切に胸にしまって、少年は男に、少女は女になるものだ。だいたい大人になって、今更、純愛なんてこと、できるわけもないのだ。誰かのことを夜昼となく考える時間など大人にはない。生活に追われるし、仕事もある。そもそもうらぶれたラブホテルで恋人とAVを見ながら、性欲をむさぼり合っている動物たちに純愛なぞすでに失われているのだ。
「若きヴェルテルの悩み」を読んだのは17歳の時だった。主人公ヴェルテルは、ロッテに思いを寄せる。しかし、ロッテには婚約者がすでにいたのだった。苦悩するヴェルテル。彼は自分の思いを断ち切るために、死を選ぶ。決して実らぬ恋のための解決手段として死を選ぶ。これは、当時、美しい解決法だと思えた。実際、ヴェルテルは自殺しなくてはならなかった。みじめに生きていてはいけないのだ。それが純愛の恐ろしさであり、純愛がたった一つしかない理由でもある。この本はまさに青春文学の代表作であると同時に、できれば20歳までに読んでおきたい本である。
純愛を、本来の所有者である若者たちに返してはどうだろう? 小説や映画で、そんなありもしない、もう失われたものを夢見ることを、大人たちは止めるべきだ。所詮、疲れきった大人の暇つぶしのノスタルジーなのだ。そんなきれいごとを語り、自分たちを美化するよりも、単調な生活に埋没することのほうがよっぽど美しい人生の解決手段ではなかろうか?
「世界の中心で愛を叫ぶ」という本が昨年300万部以上売れたそうだ。なにやら世間では、純愛ブームらしい。が、テレビや週刊誌をにぎわしているのは、自分の性生活を露骨に告白するOL、相変わらず街角で行われる素人の援助交際がプロの風俗嬢の職域を荒らし、大の大人がわいせつ行為で逮捕され、少女を監禁する変質者が後をたたない。
そもそも純愛などというものがブームになること自体、おかしいことではないか? 純愛は、思春期に特有のものではなかろうか? 一過性のものだ。おたふく風邪とか、はしかとかとどこがちがうのか? 純愛自体が、ひとつの青春文学みたいなもので、だれもが自分だけの自分だけが体験した一つの純愛物語を持っているのではなかろうか? 誰かのことを思って、胸が苦しくなるとか、夜も昼もある一人のことを想い続けるとか。そういった自分の過去のたった一つの自分だけの物語を大切に胸にしまって、少年は男に、少女は女になるものだ。だいたい大人になって、今更、純愛なんてこと、できるわけもないのだ。誰かのことを夜昼となく考える時間など大人にはない。生活に追われるし、仕事もある。そもそもうらぶれたラブホテルで恋人とAVを見ながら、性欲をむさぼり合っている動物たちに純愛なぞすでに失われているのだ。
「若きヴェルテルの悩み」を読んだのは17歳の時だった。主人公ヴェルテルは、ロッテに思いを寄せる。しかし、ロッテには婚約者がすでにいたのだった。苦悩するヴェルテル。彼は自分の思いを断ち切るために、死を選ぶ。決して実らぬ恋のための解決手段として死を選ぶ。これは、当時、美しい解決法だと思えた。実際、ヴェルテルは自殺しなくてはならなかった。みじめに生きていてはいけないのだ。それが純愛の恐ろしさであり、純愛がたった一つしかない理由でもある。この本はまさに青春文学の代表作であると同時に、できれば20歳までに読んでおきたい本である。
純愛を、本来の所有者である若者たちに返してはどうだろう? 小説や映画で、そんなありもしない、もう失われたものを夢見ることを、大人たちは止めるべきだ。所詮、疲れきった大人の暇つぶしのノスタルジーなのだ。そんなきれいごとを語り、自分たちを美化するよりも、単調な生活に埋没することのほうがよっぽど美しい人生の解決手段ではなかろうか?
ISBN:4062748681 文庫 村上 春樹 講談社 2004/09/15 ¥540
ノルウェーの森は、恋愛小説に分類される。
果たしてそうだろうか?
直子はワタナベくんを愛していたのだろうか(小説の最後にある、直子の自殺を知った後のワタナベくんの独白などから推測できると思います)?
直子はキズキという幼なじみをずっと好きであったけれども、彼は自殺してしまう。
自殺の理由も分からないまま、直子は生き続けている。
数年後、偶然、ワタナベ君と再会。
二人は、出会うたびに、延々と東京の町を歩き続ける。
直子の誕生日の夜、彼らは関係を持って、その数日後、直子がもう東京にいないことをワタナベ君は知る。
そんな時、一通の手紙がワタナベくんの元に届く。
直子がワタナベくんを愛していなかったように、ワタナベ君も直子を愛していたかどうかさえ、今となっては怪しく思える。
初めてこの本を読んだときは、一人のことを思い続ける恋愛と思った。だが、あれから時間が経ち、あらためてあのストーリーを思い出してみると、あれは、愛とか恋愛というものではなくて、あの二人の関係は、決して手の届かない場所にいる死者キズキを、直子とワタナベくんがお互いを通して探している関係(だから、彼らは延々と東京の町を二人で彷徨い歩く)と思える。
キズキくんに関しての記述は、最初の方に少し出てくるだけで、あまり詳しく描かれていない。
あれは、恋愛をテーマにしているのではなくて、実は、死をテーマにしているのでは? と思っている。
死者と生者のつながりというか、生者の中に生きている死者と言うか。
実際、小説の最後に、どこか分からない場所から、主人公が、生命力にあふれた緑に電話することで、生きているものとの関係をつなぎ止める。
この小説は、著者のデビュー作「風の歌を聴け」にある「死は生の対極ではない」という言葉の長い長い、パラフレーズではなかろうか?
ノルウェーの森は、恋愛小説に分類される。
果たしてそうだろうか?
直子はワタナベくんを愛していたのだろうか(小説の最後にある、直子の自殺を知った後のワタナベくんの独白などから推測できると思います)?
直子はキズキという幼なじみをずっと好きであったけれども、彼は自殺してしまう。
自殺の理由も分からないまま、直子は生き続けている。
数年後、偶然、ワタナベ君と再会。
二人は、出会うたびに、延々と東京の町を歩き続ける。
直子の誕生日の夜、彼らは関係を持って、その数日後、直子がもう東京にいないことをワタナベ君は知る。
そんな時、一通の手紙がワタナベくんの元に届く。
直子がワタナベくんを愛していなかったように、ワタナベ君も直子を愛していたかどうかさえ、今となっては怪しく思える。
初めてこの本を読んだときは、一人のことを思い続ける恋愛と思った。だが、あれから時間が経ち、あらためてあのストーリーを思い出してみると、あれは、愛とか恋愛というものではなくて、あの二人の関係は、決して手の届かない場所にいる死者キズキを、直子とワタナベくんがお互いを通して探している関係(だから、彼らは延々と東京の町を二人で彷徨い歩く)と思える。
キズキくんに関しての記述は、最初の方に少し出てくるだけで、あまり詳しく描かれていない。
あれは、恋愛をテーマにしているのではなくて、実は、死をテーマにしているのでは? と思っている。
死者と生者のつながりというか、生者の中に生きている死者と言うか。
実際、小説の最後に、どこか分からない場所から、主人公が、生命力にあふれた緑に電話することで、生きているものとの関係をつなぎ止める。
この小説は、著者のデビュー作「風の歌を聴け」にある「死は生の対極ではない」という言葉の長い長い、パラフレーズではなかろうか?
中原中也全詩歌集〈下〉
2005年5月26日 読書
ISBN:4061961292 文庫 吉田 熈生 講談社 1991/05 ¥1,680
下巻には、「在りし日の歌」と未刊詩集を収める。 「在りし日の歌」の後記は、「さらば東京! おおわが青春!」で結ばれている(日付は1937.9.23)。 この後記が書かれたとき、中也は愛児文也を失い、悲しみのあまりノイローゼ状態に陥る。妻とともに帰郷を決意した彼は「在りし日の歌」の入った原稿袋を小林秀雄に託す。だが、それから2週間経たないうちに、結核性脳腫瘍が発覚し、入院。10月22日、脳膜炎を併発し、鎌倉養生院で息を引き取る。享年31歳。
「在りし日の歌」は精神の平衡を欠いた人間中原中也が選び抜いた最後の詠となった。
この詩集を初めて読んだのは、19歳の夏だった。あれから20年。今読み返しても、この詩はストレートに心に響く。そのあまりの無防備故に。
「けふ一日(ひとひ)また金の風/大きい風には銀の鈴/けふ一日また金の風(早春の風)」の移ろうような美しさと無邪気さ。「ぽっかり月が出ましたら、/舟を浮かべて出かけませう(湖上)」に表現された愛らしさ。「ほらほら、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労に満ちた(骨)」で詠われる泣き笑い。「思えば遠く来たもんだ/十二の冬のあの夕べ(頑是ない歌)」の悲しいまでの郷愁。
純愛ブームの昨今。若い方に、私は次の詩を読んでいただきたいものだ。
「いとしい者の上に風が吹き/私の上にも風が吹いた/いとしいものはただ無邪気に笑っており/世間はただ遥か彼方で荒くれていた/いとしい者の上に風が吹き…(山上のひととき)」。
下巻には、「在りし日の歌」と未刊詩集を収める。 「在りし日の歌」の後記は、「さらば東京! おおわが青春!」で結ばれている(日付は1937.9.23)。 この後記が書かれたとき、中也は愛児文也を失い、悲しみのあまりノイローゼ状態に陥る。妻とともに帰郷を決意した彼は「在りし日の歌」の入った原稿袋を小林秀雄に託す。だが、それから2週間経たないうちに、結核性脳腫瘍が発覚し、入院。10月22日、脳膜炎を併発し、鎌倉養生院で息を引き取る。享年31歳。
「在りし日の歌」は精神の平衡を欠いた人間中原中也が選び抜いた最後の詠となった。
この詩集を初めて読んだのは、19歳の夏だった。あれから20年。今読み返しても、この詩はストレートに心に響く。そのあまりの無防備故に。
「けふ一日(ひとひ)また金の風/大きい風には銀の鈴/けふ一日また金の風(早春の風)」の移ろうような美しさと無邪気さ。「ぽっかり月が出ましたら、/舟を浮かべて出かけませう(湖上)」に表現された愛らしさ。「ほらほら、これが僕の骨だ、/生きていた時の苦労に満ちた(骨)」で詠われる泣き笑い。「思えば遠く来たもんだ/十二の冬のあの夕べ(頑是ない歌)」の悲しいまでの郷愁。
純愛ブームの昨今。若い方に、私は次の詩を読んでいただきたいものだ。
「いとしい者の上に風が吹き/私の上にも風が吹いた/いとしいものはただ無邪気に笑っており/世間はただ遥か彼方で荒くれていた/いとしい者の上に風が吹き…(山上のひととき)」。
中原中也全詩歌集〈上〉
2005年5月26日 読書
ISBN:4061961284 文庫 吉田 熈生 講談社 1991/05 ¥1,575
中原中也全詩歌集(上)には、彼の詩集「山羊の歌」と未刊詩集が収められている。
「汚れっちまった悲しみに」で有名な中原中也。叙情詩人ととられがちな詩人だが、初期の詩はダダイズムの影響が色濃くでている。
山羊の歌の冒頭「春の日の夕暮」では、「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです」ではじまる。今の目で、また耳に、この1920年〜30年代のダダイズムの詩は、まっすぐに心に響かないのではないだろうか?
しかし、そのダダイズムの影響は、この詩には濃厚だが、後に続く詩の数々は中原中也の精髄が現れる。少年時代の回想から「私の上に降る雪は(生い立ちの歌)」、愛おしい女を歌った詩「そなたの胸は海のよう(みちこ)」、妹の死を嘆く詩「夜、美しい魂は泣いて(妹よ)」、絶望の歌「暗き空へと消えゆきぬ(失せし希望)」など、あらゆる感情が詠われる。
「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事において文句はないのだ」
生涯、就職をせず、親からの仕送りだけで生活し続けた詩人、中原中也。奇しくも彼が、「山羊の歌」の最後に、詠うのは、絶えず表現し続けることを自らに課した一人の男のため息のように感じられる。若き日に読んでおきたい一冊。
中原中也全詩歌集(上)には、彼の詩集「山羊の歌」と未刊詩集が収められている。
「汚れっちまった悲しみに」で有名な中原中也。叙情詩人ととられがちな詩人だが、初期の詩はダダイズムの影響が色濃くでている。
山羊の歌の冒頭「春の日の夕暮」では、「トタンがセンベイ食べて/春の日の夕暮は穏かです」ではじまる。今の目で、また耳に、この1920年〜30年代のダダイズムの詩は、まっすぐに心に響かないのではないだろうか?
しかし、そのダダイズムの影響は、この詩には濃厚だが、後に続く詩の数々は中原中也の精髄が現れる。少年時代の回想から「私の上に降る雪は(生い立ちの歌)」、愛おしい女を歌った詩「そなたの胸は海のよう(みちこ)」、妹の死を嘆く詩「夜、美しい魂は泣いて(妹よ)」、絶望の歌「暗き空へと消えゆきぬ(失せし希望)」など、あらゆる感情が詠われる。
「ゆふがた、空の下で、身一点に感じられれば、万事において文句はないのだ」
生涯、就職をせず、親からの仕送りだけで生活し続けた詩人、中原中也。奇しくも彼が、「山羊の歌」の最後に、詠うのは、絶えず表現し続けることを自らに課した一人の男のため息のように感じられる。若き日に読んでおきたい一冊。
哲学的思考―フッサール現象学の核心
2005年5月26日 読書
ISBN:4480842578 単行本 西 研 筑摩書房 2001/06 ¥2,625
哲学書を読む癖がついたのは、大学生の頃だった。分からずに頁をただひたすらめくっていた。「自我」だ、「理性」だ、「悟性」だ、「先験的」だという、まるで漢文みたいな語がぐるぐる回り続けるだけで、ほんとうに理解できたかというとはなはだ怪しい。
有名どころは文庫本で買いそろえたが、結局、頁をめくっただけだったのだろう。
しかし、こんないい加減な読書でも、10年以上続けていると、本の内容の断片が、「あっ!」とひらめくように理解できる瞬間が、時折、訪れる。
そして、2004年、僕は、この本と巡り会った。
「哲学的思考」などというタイトルを見た瞬間に、30cmほど腰がひけそうになる。硬い! しかもページ数は400頁もある。う〜ん。この本は売れたのだろうか? とまず最初にそんな、どうでもいいことが気になるのだ。しかし、僕はこの本の内容のすべてを肯定する訳ではないが、こういった本をしっかり読む人がたくさん現れてくれればいいなと思う。
この本の帯には「考えあうことの希望」とある。本書は、フッサールの現象学を通して、考えるとはなにか? また考えあうこととはなにか? をとても平易に解説している。
「しかしいま、思想の営みは貧しく、広がりを失っていると思う。思想誌はいくつか存在しているかもしれないし、思想家と呼ばれる人たちもいないわけではない。しかし日々を生きるふつうの人々のなかに、思想というものが生きているだろうか。考えあうことへの希望と信頼が生きているだろうか?
若い人たちの多くが、『人それぞれですからね』とよく口にする。もちろん、趣味のようなものは『人それぞれ』でいいのだし、またそうでなくてはならない。でも、私の生のなかには、共通な困難、共通な課題も確かに存在している。社会という共通な場面だけでなく、私たち一人一人の個人的な生の中にも、共通な困難は存在している。それを取り出してともに考えあうことができるなら、そうした営みは私たちのあいだにつながりの感覚と希望をもたらすかもしれない。だが、『人それぞれ』という言葉は、そうした思想の営みを中断する。というより、ゲームに乗ること自体をやんわりと拒否するのだ」
(本書より引用)
本書は難解なフッサールの現象学を平易に解説しているだけでなく、フッサールの周辺の哲学者についても同時に多くの解説を含んでいて、読後、19世紀から20世紀の西洋哲学についての理解を助けている。
簡単な本ではない。しかし、フッサールの翻訳をいきなり読むよりも、まずこの本を読み、フッサールや他の哲学者の書に向かった方が、理解しやすいと、僕は考える。哲学に興味がある人だけでなく、誰もが考えるであろう、「なぜ、人と意見が合わないのだろう?」、「僕は、ほんとうに他人とまったく同じように考えているのだろうか?」、「僕の(わたしの)言葉は、ほんとうに人に通じているのだろうか?」などという疑問が胸や頭に浮かび上がることがあったら、まず手にとってもいただきたい本だ。必ずあなたは、この本の中に、解決の糸口を見つけることができるのだから
哲学書を読む癖がついたのは、大学生の頃だった。分からずに頁をただひたすらめくっていた。「自我」だ、「理性」だ、「悟性」だ、「先験的」だという、まるで漢文みたいな語がぐるぐる回り続けるだけで、ほんとうに理解できたかというとはなはだ怪しい。
有名どころは文庫本で買いそろえたが、結局、頁をめくっただけだったのだろう。
しかし、こんないい加減な読書でも、10年以上続けていると、本の内容の断片が、「あっ!」とひらめくように理解できる瞬間が、時折、訪れる。
そして、2004年、僕は、この本と巡り会った。
「哲学的思考」などというタイトルを見た瞬間に、30cmほど腰がひけそうになる。硬い! しかもページ数は400頁もある。う〜ん。この本は売れたのだろうか? とまず最初にそんな、どうでもいいことが気になるのだ。しかし、僕はこの本の内容のすべてを肯定する訳ではないが、こういった本をしっかり読む人がたくさん現れてくれればいいなと思う。
この本の帯には「考えあうことの希望」とある。本書は、フッサールの現象学を通して、考えるとはなにか? また考えあうこととはなにか? をとても平易に解説している。
「しかしいま、思想の営みは貧しく、広がりを失っていると思う。思想誌はいくつか存在しているかもしれないし、思想家と呼ばれる人たちもいないわけではない。しかし日々を生きるふつうの人々のなかに、思想というものが生きているだろうか。考えあうことへの希望と信頼が生きているだろうか?
若い人たちの多くが、『人それぞれですからね』とよく口にする。もちろん、趣味のようなものは『人それぞれ』でいいのだし、またそうでなくてはならない。でも、私の生のなかには、共通な困難、共通な課題も確かに存在している。社会という共通な場面だけでなく、私たち一人一人の個人的な生の中にも、共通な困難は存在している。それを取り出してともに考えあうことができるなら、そうした営みは私たちのあいだにつながりの感覚と希望をもたらすかもしれない。だが、『人それぞれ』という言葉は、そうした思想の営みを中断する。というより、ゲームに乗ること自体をやんわりと拒否するのだ」
(本書より引用)
本書は難解なフッサールの現象学を平易に解説しているだけでなく、フッサールの周辺の哲学者についても同時に多くの解説を含んでいて、読後、19世紀から20世紀の西洋哲学についての理解を助けている。
簡単な本ではない。しかし、フッサールの翻訳をいきなり読むよりも、まずこの本を読み、フッサールや他の哲学者の書に向かった方が、理解しやすいと、僕は考える。哲学に興味がある人だけでなく、誰もが考えるであろう、「なぜ、人と意見が合わないのだろう?」、「僕は、ほんとうに他人とまったく同じように考えているのだろうか?」、「僕の(わたしの)言葉は、ほんとうに人に通じているのだろうか?」などという疑問が胸や頭に浮かび上がることがあったら、まず手にとってもいただきたい本だ。必ずあなたは、この本の中に、解決の糸口を見つけることができるのだから
ISBN:4783728259 単行本 篠田 知和基 思潮社 1991/10 ¥1,835
フランス幻想文学の巨星ジェラールド・ネルヴァル。彼の代表作は「火の娘たち」が上げられる。だが、僕は、彼の遺作オーレリアを勧めたい。
「夢はもうひとつの生である。見えない世界とわれわれとをへだてている、あの…」。夢をもうひとつの人生だと考えることは、フロイトによって無意識の世界が開拓された現代では、あたりまえとなっているだろう。
しかし、誰もが夢を見る。そして、目覚めて思う。「あ、あれは、夢だったのかと」。そう、それは夢にすぎない。そうして、また人々は、現実の世界に戻り、そこに生きていると考えることだろう。眠りから覚めたのだと。彼らにとって、夢の世界とは、休息の時間、眠りの時間としか考えないだろう。
もしも、夢は、ビビッドな現実である、夢という現実を生きているのだと私が言えば、私を狂人と、あなたは思うだろうか?
最愛の女性を失った彼。
「また失った!すべては終わりだ。すべては過ぎ去った。いまや死なねばならないのは私だった。望みのなく死ぬのだ!」と叫ぶネルヴァルにとって、逃げ込める先は、もはや夢の世界しかなかった。彼の目に映る現実はあまりにただ広大で、とりとめがなく、また時間はただあまりに早く行き過ぎてしまった。ちょうど指の間から零れ落ちる砂粒のように。
失うことの多すぎる人間は、この世界か、この世界とは違う世界で、失われたものを取り戻そうと試みる。 彼の精神が現実を離れ、夢の世界に彷徨い、彼の視線がもはや、現実のものを見なくなり彼が、幻視者となった時、人々は、見つけた。ひとりの幸福な男がパリの街角で首をくくって死んでいるのを。
フランス幻想文学の巨星ジェラールド・ネルヴァル。彼の代表作は「火の娘たち」が上げられる。だが、僕は、彼の遺作オーレリアを勧めたい。
「夢はもうひとつの生である。見えない世界とわれわれとをへだてている、あの…」。夢をもうひとつの人生だと考えることは、フロイトによって無意識の世界が開拓された現代では、あたりまえとなっているだろう。
しかし、誰もが夢を見る。そして、目覚めて思う。「あ、あれは、夢だったのかと」。そう、それは夢にすぎない。そうして、また人々は、現実の世界に戻り、そこに生きていると考えることだろう。眠りから覚めたのだと。彼らにとって、夢の世界とは、休息の時間、眠りの時間としか考えないだろう。
もしも、夢は、ビビッドな現実である、夢という現実を生きているのだと私が言えば、私を狂人と、あなたは思うだろうか?
最愛の女性を失った彼。
「また失った!すべては終わりだ。すべては過ぎ去った。いまや死なねばならないのは私だった。望みのなく死ぬのだ!」と叫ぶネルヴァルにとって、逃げ込める先は、もはや夢の世界しかなかった。彼の目に映る現実はあまりにただ広大で、とりとめがなく、また時間はただあまりに早く行き過ぎてしまった。ちょうど指の間から零れ落ちる砂粒のように。
失うことの多すぎる人間は、この世界か、この世界とは違う世界で、失われたものを取り戻そうと試みる。 彼の精神が現実を離れ、夢の世界に彷徨い、彼の視線がもはや、現実のものを見なくなり彼が、幻視者となった時、人々は、見つけた。ひとりの幸福な男がパリの街角で首をくくって死んでいるのを。
ファン・ゴッホの手紙
2005年5月26日 読書
ISBN:4622044269 単行本 圀府寺 司 みすず書房 2001/11 ¥5,040
7月のある夜、その男は、自分の腹を抱え込むようにベッドに横たわっていた。また彼の胸ポケットには一通の投函されていない手紙があった。手紙はところどころ血に染まっていたかもしれない。
「さて僕自身の仕事だが、僕はそこに自分の命をかけ、僕の理性はその仕事で半ば崩壊した。まあそれはいい。しかし、君は僕の知る限り世間一般の商人ではない。また、君は本当に人間味をもって行動する仕方で自分の立場を選ぶことができる、僕はそう君を見ている。しかし、どうしたらいいのだ。」
男は画家であった。しかし、これまでに売れた絵はただの1点しかなかった。弟は画商をしていた。兄の才能を信じ、兄にできるかぎりの援助を与えていた。彼らは、精神的に結び合わさっていたし、頻繁に手紙も交わしていた。
若き頃、男は、牧師になることを志した。くる日も来る日も、狭い屋根裏部屋の片隅で、たったひとりっきりで、聖歌を歌った。ある時は、見ず知らずのけが人を看病するために自らの持ち物をすべて売り払い、自らは床に眠って看病した。彼は金銭に無頓着であっただけでなく、知らず知らずキリスト者として生きていた。
そんな彼が、画家として、生計を立てようとしたのも、打算からではなかった。この男に打算はなかったから。男は、南フランスのミストラルの吹きつける中、懸命に自らを描き続けた。
絵筆が折れた7月のある夕方。麦畑の真ん中で、男は自らの体を狙って、ピストルを放った。この次の夜、男は弟に看取られながら、静かに息を引き取る。
ある孤独な芸術家の魂の告白。
7月のある夜、その男は、自分の腹を抱え込むようにベッドに横たわっていた。また彼の胸ポケットには一通の投函されていない手紙があった。手紙はところどころ血に染まっていたかもしれない。
「さて僕自身の仕事だが、僕はそこに自分の命をかけ、僕の理性はその仕事で半ば崩壊した。まあそれはいい。しかし、君は僕の知る限り世間一般の商人ではない。また、君は本当に人間味をもって行動する仕方で自分の立場を選ぶことができる、僕はそう君を見ている。しかし、どうしたらいいのだ。」
男は画家であった。しかし、これまでに売れた絵はただの1点しかなかった。弟は画商をしていた。兄の才能を信じ、兄にできるかぎりの援助を与えていた。彼らは、精神的に結び合わさっていたし、頻繁に手紙も交わしていた。
若き頃、男は、牧師になることを志した。くる日も来る日も、狭い屋根裏部屋の片隅で、たったひとりっきりで、聖歌を歌った。ある時は、見ず知らずのけが人を看病するために自らの持ち物をすべて売り払い、自らは床に眠って看病した。彼は金銭に無頓着であっただけでなく、知らず知らずキリスト者として生きていた。
そんな彼が、画家として、生計を立てようとしたのも、打算からではなかった。この男に打算はなかったから。男は、南フランスのミストラルの吹きつける中、懸命に自らを描き続けた。
絵筆が折れた7月のある夕方。麦畑の真ん中で、男は自らの体を狙って、ピストルを放った。この次の夜、男は弟に看取られながら、静かに息を引き取る。
ある孤独な芸術家の魂の告白。
ISBN:4560071268 単行本(ソフトカバー) 小田島 雄志 白水社 1998/12 ¥924
ワーニャ伯父さんを書いたから、ついでといってはなんだが、かもめについても書いてみよう。
ワーニャ伯父さんが、人生を蕩尽した男を描いた作品なら、かもめは愛に生き、愛に死んだ男を描いた作品だろう。
純愛小説などがなにやらブームらしいが、そういうことは、このような作品を読んでからにしてもらいたい。
主人公トレープレフは、田舎に住み、母を女優に持つ、また自らは劇作家を目指す青年。彼の恋人ニーナは女優を志し、彼の書いた劇を演じている。そこにトレープレフの母とその愛人である有名な劇作家トリゴーリンが現れる。ニーナはトリゴーリンに心をひかれはじめ、トレープレフを捨て、二人でモスクワに旅立つ。
数年の歳月が流れる。ニーナはトレープレフの子供を身ごもるが子供はすぐに死んでしまい、トレープレフに捨てられ、今では、地方を巡業する芝居小屋生活。一方、トレープレフは、作品が雑誌に載りだす新進気鋭の劇作家となっていた。
そんなある夜、変わり果てたニーナがトレープレフの屋敷に現れる。
「ニーナ、僕はあなたを呪って、憎んで、手紙や写真を破ってしまったけれど、いつもいつも、僕の心は永久にあなたと結ばれてると意識してたんだよ。あなたをきらいになるなんて僕にはできないよ、ニーナ。あなたを失って、作品が雑誌にのりだしてからというもの、生きる事が僕には堪え難いものになった。僕は苦しんでいるのだから……。青春を急にもぎとられて、もうこの世に九十年も生きているような気がするんだ。僕はあなたの名を呼んで、あなたの歩いた地面に口づけする。どっちを向いても、どこにもあなたの顔が浮かんでくる。僕の生涯の一番いい年月を照らしてくれたあのやさしいほほえみが……」
それを聞くニーナは、うつうろな目を彷徨わせ、過去を懐かしむ。
彼女は、もう抜け殻のようになっている。
「わたしはかもめよ…、いやそうじゃない。わたしは女優」。
彼らの上に一瞬の光が差し込むが、彼女は再びトレープレフの元を去る。
そして、彼は、机から、ピストルを、取り出し、銃口を、自らの顳かみに、当て、引き金を、ゆっくりと、引く。隣の部屋では、トランプ遊びの、はしゃぎ声。
チェーホフは、これをコメディであると書いているのだが。
ワーニャ伯父さんを書いたから、ついでといってはなんだが、かもめについても書いてみよう。
ワーニャ伯父さんが、人生を蕩尽した男を描いた作品なら、かもめは愛に生き、愛に死んだ男を描いた作品だろう。
純愛小説などがなにやらブームらしいが、そういうことは、このような作品を読んでからにしてもらいたい。
主人公トレープレフは、田舎に住み、母を女優に持つ、また自らは劇作家を目指す青年。彼の恋人ニーナは女優を志し、彼の書いた劇を演じている。そこにトレープレフの母とその愛人である有名な劇作家トリゴーリンが現れる。ニーナはトリゴーリンに心をひかれはじめ、トレープレフを捨て、二人でモスクワに旅立つ。
数年の歳月が流れる。ニーナはトレープレフの子供を身ごもるが子供はすぐに死んでしまい、トレープレフに捨てられ、今では、地方を巡業する芝居小屋生活。一方、トレープレフは、作品が雑誌に載りだす新進気鋭の劇作家となっていた。
そんなある夜、変わり果てたニーナがトレープレフの屋敷に現れる。
「ニーナ、僕はあなたを呪って、憎んで、手紙や写真を破ってしまったけれど、いつもいつも、僕の心は永久にあなたと結ばれてると意識してたんだよ。あなたをきらいになるなんて僕にはできないよ、ニーナ。あなたを失って、作品が雑誌にのりだしてからというもの、生きる事が僕には堪え難いものになった。僕は苦しんでいるのだから……。青春を急にもぎとられて、もうこの世に九十年も生きているような気がするんだ。僕はあなたの名を呼んで、あなたの歩いた地面に口づけする。どっちを向いても、どこにもあなたの顔が浮かんでくる。僕の生涯の一番いい年月を照らしてくれたあのやさしいほほえみが……」
それを聞くニーナは、うつうろな目を彷徨わせ、過去を懐かしむ。
彼女は、もう抜け殻のようになっている。
「わたしはかもめよ…、いやそうじゃない。わたしは女優」。
彼らの上に一瞬の光が差し込むが、彼女は再びトレープレフの元を去る。
そして、彼は、机から、ピストルを、取り出し、銃口を、自らの顳かみに、当て、引き金を、ゆっくりと、引く。隣の部屋では、トランプ遊びの、はしゃぎ声。
チェーホフは、これをコメディであると書いているのだが。
ISBN:4560071276 単行本(ソフトカバー) 小田島 雄志 白水社 1999/01 ¥924
チェーホフは日本でも人気のある劇作家ではなかろうか? 桜の園、三人姉妹、かもめなどよく知られた劇があるが、僕は、ワーニャ伯父さんをもっとも好む。 もともと、この作品は、「森の精」という作品を書き直したもので、以前、筑摩文庫からチェーホフ全集が刊行された時、僕は読んでみたが、4幕ものの「ワーニャ伯父さん」のほうが断然、すばらしいと思えるし、感じられる。
主人公ワーニャは、ある農園の管理をしている。彼の妹婿はモスクワで大学教授をしているが、妻に先立たれ、美しく若い後妻エレーナを迎え、この農園にやってきた。 ワーニャは、自分の義理の弟のために身を粉にして、自分の人生を投げうるかのように農園を管理してきたのだが、自分の人生がすでに蕩尽されたものだと、感じている。 今は、その義理の弟をただの俗物としか思えず、また、農園の管理自体に、もう何の意味も見いだせない。そんな中、彼は、美しいエレーナに心を寄せる。
「もうすぐ雨も上がるだろう。そして大自然にある万物はよみがえり、ほっとひと息つくだろう。嵐のおかげで息を吹き返さないものはたった一つ、このぼくだ。昼も夜も同じ一つの思いが胸に居座る魔物のように僕を締め付ける。ぼくの人生は失われてしまいもう取りかえしがつかない、という思いが。ぼくには過去はない。過去はつまらないことに浪費してしまった。といって、現在もひどいものだ、ばかばかしてくて話にならない。それがぼくの人生だ、ぼくの愛だ、それをどうすればいい、どうあつかえばいい? ぼくの感情は底なし穴に差し込む陽の光のようにむだに消えてゆく。ぼく自身もむだに消えてゆくんだ」
しかし、エレーナは、彼の愛を受け入れる事はできず、拒絶する。絶望するワーニャ。
そして、大学教授がこの農園を売却する事を、ワーニャに提案した時、怒り狂いピストルを持ち出すワーニャ…。
この作品の最後にワーニャの姪ソーニャが、絶望した叔父に語りかける部分が美しくも、やさしい。もしもこの部分がなければ、もう自分の人生自体に、絶望し、意味を失い、価値さえ見いだせなくなった男の失恋劇だけで終わってしまう。それはあまりに惨すぎる。
「私たちはひと息つけるのよ! そして天使の声を聞き、ダイヤモンドをちりばめた空を仰ぐの。この世の悪のすべて、私たちの苦しみのすべてが大地を満たす神様の慈悲の底に呑み込まれていくのを見るの。…」
チェーホフは日本でも人気のある劇作家ではなかろうか? 桜の園、三人姉妹、かもめなどよく知られた劇があるが、僕は、ワーニャ伯父さんをもっとも好む。 もともと、この作品は、「森の精」という作品を書き直したもので、以前、筑摩文庫からチェーホフ全集が刊行された時、僕は読んでみたが、4幕ものの「ワーニャ伯父さん」のほうが断然、すばらしいと思えるし、感じられる。
主人公ワーニャは、ある農園の管理をしている。彼の妹婿はモスクワで大学教授をしているが、妻に先立たれ、美しく若い後妻エレーナを迎え、この農園にやってきた。 ワーニャは、自分の義理の弟のために身を粉にして、自分の人生を投げうるかのように農園を管理してきたのだが、自分の人生がすでに蕩尽されたものだと、感じている。 今は、その義理の弟をただの俗物としか思えず、また、農園の管理自体に、もう何の意味も見いだせない。そんな中、彼は、美しいエレーナに心を寄せる。
「もうすぐ雨も上がるだろう。そして大自然にある万物はよみがえり、ほっとひと息つくだろう。嵐のおかげで息を吹き返さないものはたった一つ、このぼくだ。昼も夜も同じ一つの思いが胸に居座る魔物のように僕を締め付ける。ぼくの人生は失われてしまいもう取りかえしがつかない、という思いが。ぼくには過去はない。過去はつまらないことに浪費してしまった。といって、現在もひどいものだ、ばかばかしてくて話にならない。それがぼくの人生だ、ぼくの愛だ、それをどうすればいい、どうあつかえばいい? ぼくの感情は底なし穴に差し込む陽の光のようにむだに消えてゆく。ぼく自身もむだに消えてゆくんだ」
しかし、エレーナは、彼の愛を受け入れる事はできず、拒絶する。絶望するワーニャ。
そして、大学教授がこの農園を売却する事を、ワーニャに提案した時、怒り狂いピストルを持ち出すワーニャ…。
この作品の最後にワーニャの姪ソーニャが、絶望した叔父に語りかける部分が美しくも、やさしい。もしもこの部分がなければ、もう自分の人生自体に、絶望し、意味を失い、価値さえ見いだせなくなった男の失恋劇だけで終わってしまう。それはあまりに惨すぎる。
「私たちはひと息つけるのよ! そして天使の声を聞き、ダイヤモンドをちりばめた空を仰ぐの。この世の悪のすべて、私たちの苦しみのすべてが大地を満たす神様の慈悲の底に呑み込まれていくのを見るの。…」
ISBN:448852205X 文庫 福永 武彦 東京創元社 2000/00 ¥798
先日、朝日新聞を読んでいると、こんな記事があった。
「詩は死んでなんかいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。(略)自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバは不気味なリアリティを伴っており(略)、痴呆症の老人たちによるダダイズム的な妄言、池袋のアパートで餓死した母子の日々の暮らしを綴った母の日記などが紹介されてきたが、極めつけは処刑日の朝、死刑囚が透徹した目で詠んだ辞世の句だ」(2005.5.25朝日新聞文芸時評 島田雅彦)
全国紙の文芸時評にこんな記事が載る。書いているのは日本文学の旗手、島田雅彦氏。20年前ならさしずめアングラといわれるたぐいの内容の物が、朝日新聞に掲載されていることに僕はひどく驚くと同時に、アングラが今や陽の光を浴び、地上を闊歩している不思議なん光景を頭に描いた。上の記事を言い換えるなら、子どもの落書きもピカソの作品も同じような物だといっているのとどこが違うのだろうか? むしろ予定調和の外にある子どもの落書きを賞賛しているかのようだ。
エドガー・アラン・ポーは推理小説、怪奇小説の作家として日本では有名だろう。モルグ街の殺人、黄金虫など数々の名作を残している。が、彼には他に二つの顔があることは、あまり知られていない。ひとつは雑誌編集者としての顔。もう一つはフランス象徴派の詩人たちに多大な影響を与えた偉大なる詩人としての顔である。
「構成の原理」と題された論文は、彼が自身の詩「大鴉」ができるまでの舞台裏を綴ったものだ。これは、当時の詩の世界を引っくり返す作品である。ボードレールは「詩の誕生」と改題して、フランス語に逸早く翻訳して、紹介したぐらいなのだ。
それまでの詩とは、詩の神様が突然詩人の頭上に舞い降り、まるで降霊術師が詠うかのように、誕生するものだと考えられていた(少々おおげさな表現だが)。しかし、ポーは、その常識を180度ひっくりかえしてしまった。詩とは、まるで建築物のように完璧な設計図をひき、構成されるものであるとしたのだ。この考えは、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーとつづくフランス象徴派に脈々と受け継がれていく。
実際「大鴉」を読んだ後に、「構成の原理」を読んでいただきたい。なぜこの詩が100行であるのか? なぜ「Nevermore(もはやない)」という言葉が繰り返されるのか? なぜ登場する動物が鴉でなくてはならないのか? が分かるのだ。
このあまりに巨大な建築物の前で、「自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバ」は、どんなリアリティをもつのであろうか?
先日、朝日新聞を読んでいると、こんな記事があった。
「詩は死んでなんかいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。(略)自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバは不気味なリアリティを伴っており(略)、痴呆症の老人たちによるダダイズム的な妄言、池袋のアパートで餓死した母子の日々の暮らしを綴った母の日記などが紹介されてきたが、極めつけは処刑日の朝、死刑囚が透徹した目で詠んだ辞世の句だ」(2005.5.25朝日新聞文芸時評 島田雅彦)
全国紙の文芸時評にこんな記事が載る。書いているのは日本文学の旗手、島田雅彦氏。20年前ならさしずめアングラといわれるたぐいの内容の物が、朝日新聞に掲載されていることに僕はひどく驚くと同時に、アングラが今や陽の光を浴び、地上を闊歩している不思議なん光景を頭に描いた。上の記事を言い換えるなら、子どもの落書きもピカソの作品も同じような物だといっているのとどこが違うのだろうか? むしろ予定調和の外にある子どもの落書きを賞賛しているかのようだ。
エドガー・アラン・ポーは推理小説、怪奇小説の作家として日本では有名だろう。モルグ街の殺人、黄金虫など数々の名作を残している。が、彼には他に二つの顔があることは、あまり知られていない。ひとつは雑誌編集者としての顔。もう一つはフランス象徴派の詩人たちに多大な影響を与えた偉大なる詩人としての顔である。
「構成の原理」と題された論文は、彼が自身の詩「大鴉」ができるまでの舞台裏を綴ったものだ。これは、当時の詩の世界を引っくり返す作品である。ボードレールは「詩の誕生」と改題して、フランス語に逸早く翻訳して、紹介したぐらいなのだ。
それまでの詩とは、詩の神様が突然詩人の頭上に舞い降り、まるで降霊術師が詠うかのように、誕生するものだと考えられていた(少々おおげさな表現だが)。しかし、ポーは、その常識を180度ひっくりかえしてしまった。詩とは、まるで建築物のように完璧な設計図をひき、構成されるものであるとしたのだ。この考えは、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーとつづくフランス象徴派に脈々と受け継がれていく。
実際「大鴉」を読んだ後に、「構成の原理」を読んでいただきたい。なぜこの詩が100行であるのか? なぜ「Nevermore(もはやない)」という言葉が繰り返されるのか? なぜ登場する動物が鴉でなくてはならないのか? が分かるのだ。
このあまりに巨大な建築物の前で、「自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバ」は、どんなリアリティをもつのであろうか?
キャッチャー・イン・ザ・ライ
2005年5月25日 読書
ISBN:4560047642 単行本 村上 春樹 白水社 2003/04/11 ¥1,680
1980年12月8日。一発の銃声がニューヨークの街角を引き裂いたとき、その凶弾で倒れた男の訃報を聞いた全世界は、驚愕したに違いない。倒れた男は、ジョン・レノン。発砲した男は、マーク・チャップマンといった。
チャップマンのポケットには「ライ麦畑でつかまえて」のペーパバックがあったという。発砲する前に、彼はそのあたりに座り込んで、読書していたともいわれる。
「ライ麦畑でつかまえて」と邦訳されているが、原題は「The Catcher In The Rye」。正確に訳すならライ麦畑のキャッチャーぐらいだろうか?
「でもともかくさ、だっだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人かの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕の他にはね。それでぼくはそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走って行く子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになんりたいんだ」
主人公ホールデンコールフィールドはハイスクールに通っているが、つまらないことがきっかけで寮を飛び出てしまう。さしずめ一昔前ならピーターパンシンドロームの一言で片付けられそうな存在だ。
彼の数日の旅、それが、この本のすべてだ。しかもその旅は魂の遍歴などという高尚な物ではない。みすぼらしい教師との会合。安っぽい娼婦との安っぽい会話。ガールフレンドとのなにげない会話。いけすかない知人との意味のない会話が続く。彼は、それらの人間と出会うことで、自分をすり減らしている。このような、自らのうちにいつだって子どもを宿している男の子は、すり減ってしまうものなんだとでも言いたげに。
しかし、この物語は、一度読むと、もう一度読みたくなる小説だ。もし読むなら若い頃がいいだろう。できれば十代の後半から二十代の前半までに読んでおきたい。数年前、村上春樹の名訳がでたから、その気分がかなり高まる。僕がその年代の頃は、同じ白水社からでていた野崎孝訳しかなかった。なんともへんちくりんな訳であったが、僕はそれ相応に、がむしゃらに読んだことが、今となっては懐かしい。
そう、これは青春文学であって、青春文学以外の何ものでもない。
雨の中メリーゴーランドにのる妹フィービーを見守るホールデンのやさしさに誰もが、心動かされると思う。
1980年12月8日。一発の銃声がニューヨークの街角を引き裂いたとき、その凶弾で倒れた男の訃報を聞いた全世界は、驚愕したに違いない。倒れた男は、ジョン・レノン。発砲した男は、マーク・チャップマンといった。
チャップマンのポケットには「ライ麦畑でつかまえて」のペーパバックがあったという。発砲する前に、彼はそのあたりに座り込んで、読書していたともいわれる。
「ライ麦畑でつかまえて」と邦訳されているが、原題は「The Catcher In The Rye」。正確に訳すならライ麦畑のキャッチャーぐらいだろうか?
「でもともかくさ、だっだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人かの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕の他にはね。それでぼくはそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走って行く子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになんりたいんだ」
主人公ホールデンコールフィールドはハイスクールに通っているが、つまらないことがきっかけで寮を飛び出てしまう。さしずめ一昔前ならピーターパンシンドロームの一言で片付けられそうな存在だ。
彼の数日の旅、それが、この本のすべてだ。しかもその旅は魂の遍歴などという高尚な物ではない。みすぼらしい教師との会合。安っぽい娼婦との安っぽい会話。ガールフレンドとのなにげない会話。いけすかない知人との意味のない会話が続く。彼は、それらの人間と出会うことで、自分をすり減らしている。このような、自らのうちにいつだって子どもを宿している男の子は、すり減ってしまうものなんだとでも言いたげに。
しかし、この物語は、一度読むと、もう一度読みたくなる小説だ。もし読むなら若い頃がいいだろう。できれば十代の後半から二十代の前半までに読んでおきたい。数年前、村上春樹の名訳がでたから、その気分がかなり高まる。僕がその年代の頃は、同じ白水社からでていた野崎孝訳しかなかった。なんともへんちくりんな訳であったが、僕はそれ相応に、がむしゃらに読んだことが、今となっては懐かしい。
そう、これは青春文学であって、青春文学以外の何ものでもない。
雨の中メリーゴーランドにのる妹フィービーを見守るホールデンのやさしさに誰もが、心動かされると思う。
1992年6月、一人の青年の遺体がアラスカで発見された。死因は餓死だった。青年の名は、クリス・マッカンドレスといった。裕福な家庭に育ち、亡くなる二年前に、大学を卒業していた。
ある日、彼は旅立った。ポケットの中の紙幣を焼き捨て、所有していた持ち物と車を捨てて。
クリスは自らの旅の途上で、多くの人たちに出会った。そして、彼は彼らの心の奥深くに彼自身を刻み込んでいった。それはこの書を読む人の心にも届く深さで。
なぜ彼はひとりぼっちで、アメリカ大陸をヒッチハイクと日雇いの労働を繰り返しながら、短い人生を駆け抜けて行ったのか? 彼は無邪気に荒野を夢見る無謀な青年だったのだろうか? 彼の軌跡とは、文明社会を嫌った、とるに足らない逃避だったのだろうか?
またある人は、彼の生き方を賞賛するだろう。真のキリスト者を崇めるように。
クリスを人生に失敗した者だと批評するのは容易い。確かに安全な生き方というものが、この世界には存在するのだから。また、多くの人たちは、安全な生活を望むのだから。なぜあらゆるものを捨て、荒野に向かわなくてはならないのだ?
一方で、彼を賞賛することも容易い。彼らは、20世紀の聖フランチェスカを見るのだ。しかし、彼を賞賛する人々は、荒野に生きているわけではないのだ。
「自分に正直に生きて、誤った方向に進んだものはこれまで誰もいない。それによって、肉体的に弱ったとしても、まだ残念な結果だったとはいえないだろう。それらは、より高い原則に準拠した生き方であるからだ。もし、昼と夜が喜んで迎えられ、また、生活が花々やいい香りのハーブのように芳香を放ち、もっとしなやかになり、星のように輝き、不滅なものになれば、しめたものである。自然全体が祝福してくれているのだし、それだけでも、自分の幸福を喜んでいいのだ。最大の利益と価値はいちばん気づきにくいものなのである。そんなものなどあるだろうか、とわれわれはつい思ってしまう。また、すぐに忘れる。が、それらは最高の真実なのである……。私の日常生活における真の収穫は、朝や夕方の淡い色合いと同様、漠としたものだし、名状したがたいものだ。それは捕らえられた小さな星屑であり、自分でしっかり掴みとった虹の切片である。」
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン 森の生活」
むきだしになった自然に、人が、たったひとりぼっちで立ち向かった時、そこで人は、はじめて自分を名称のない一個の人間であることを、知るだろう。私とは何者なのだろうかということを、社会システムの中で感じることは、ほとんど不可能ではなかろうか? 「正直に生きる」とは、荒野に向かった人が、自分自身に出会うことを指しているのではないか?
では、クリスにとって「正直に生きる」とは、どういうことだったのだろうか?
彼はその答えを、自らの旅の軌跡に残している。作者ジョン・クラカワーは、それをひとつひとつ丹念に拾い集めている。
ある日、彼は旅立った。ポケットの中の紙幣を焼き捨て、所有していた持ち物と車を捨てて。
クリスは自らの旅の途上で、多くの人たちに出会った。そして、彼は彼らの心の奥深くに彼自身を刻み込んでいった。それはこの書を読む人の心にも届く深さで。
なぜ彼はひとりぼっちで、アメリカ大陸をヒッチハイクと日雇いの労働を繰り返しながら、短い人生を駆け抜けて行ったのか? 彼は無邪気に荒野を夢見る無謀な青年だったのだろうか? 彼の軌跡とは、文明社会を嫌った、とるに足らない逃避だったのだろうか?
またある人は、彼の生き方を賞賛するだろう。真のキリスト者を崇めるように。
クリスを人生に失敗した者だと批評するのは容易い。確かに安全な生き方というものが、この世界には存在するのだから。また、多くの人たちは、安全な生活を望むのだから。なぜあらゆるものを捨て、荒野に向かわなくてはならないのだ?
一方で、彼を賞賛することも容易い。彼らは、20世紀の聖フランチェスカを見るのだ。しかし、彼を賞賛する人々は、荒野に生きているわけではないのだ。
「自分に正直に生きて、誤った方向に進んだものはこれまで誰もいない。それによって、肉体的に弱ったとしても、まだ残念な結果だったとはいえないだろう。それらは、より高い原則に準拠した生き方であるからだ。もし、昼と夜が喜んで迎えられ、また、生活が花々やいい香りのハーブのように芳香を放ち、もっとしなやかになり、星のように輝き、不滅なものになれば、しめたものである。自然全体が祝福してくれているのだし、それだけでも、自分の幸福を喜んでいいのだ。最大の利益と価値はいちばん気づきにくいものなのである。そんなものなどあるだろうか、とわれわれはつい思ってしまう。また、すぐに忘れる。が、それらは最高の真実なのである……。私の日常生活における真の収穫は、朝や夕方の淡い色合いと同様、漠としたものだし、名状したがたいものだ。それは捕らえられた小さな星屑であり、自分でしっかり掴みとった虹の切片である。」
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー「ウォールデン 森の生活」
むきだしになった自然に、人が、たったひとりぼっちで立ち向かった時、そこで人は、はじめて自分を名称のない一個の人間であることを、知るだろう。私とは何者なのだろうかということを、社会システムの中で感じることは、ほとんど不可能ではなかろうか? 「正直に生きる」とは、荒野に向かった人が、自分自身に出会うことを指しているのではないか?
では、クリスにとって「正直に生きる」とは、どういうことだったのだろうか?
彼はその答えを、自らの旅の軌跡に残している。作者ジョン・クラカワーは、それをひとつひとつ丹念に拾い集めている。
ISBN:4101183015 文庫 高野 悦子 新潮社 2000/00 ¥420
文庫本の扉にある写真は、両肩に垂れる髪、口元と目に浮かべる彼女の笑みを記録している。彼女は、どこかはにかんだような笑みをうかべている。どこにでもいそうな若い女性。清楚な雰囲気さえ漂わせている。
昭和44年6月24日未明、鉄道自殺を図り自ら命を絶った。享年20歳。
僕がこの「二十歳の原点」を読んだのは、27歳のときだった。日雇いのような仕事をして一日一日をどうにか生きていた。友達もなく、せまいアパートで、夜になるとひとり安酒を飲んでは、古本屋で見つけてきた安い文庫本を、片っ端からむさぼるように読んでいた。そして崩れるように眠り、目覚まし時計の音で気がつくと、朝を迎えていた。そんな頃、読んだ本の中の一冊。今時、こんな本をがむしゃらに読む人などいるのだろうか?
一切の人間はもういらない/人間関係はいらない/この言葉は 私のものだ/すべてのやつを忘却せよ/どんな人間にも 私の深部に立ち入らせてはならない/うすく表面だけの 付きあいをせよ/一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが/今の唯一の私の友/人間を信じてはならぬ/己れ自身を唯一の信じるものとせよ/人間に対しては 沈黙あるのみ
(死の五日前に書かれた詩)
1960年代を生きていない僕には到底考えられないが、あの時代の学生運動に参加した人たちの中には、自分たちの言動を意義あるものと思え、考えた人もいただろう。また、その運動が祝祭のように、ただのばか騒ぎのように映った人もいただろう。そして、どこか誰も知らない暗闇の中で、彼女のように目に見えぬ巨大な歯車に押しつぶされてしまったような人たちも、事実いたのだろう。冷たい線路の上に投げ出した小さな暖かい体を、鋼鉄の車輪は、無言で引き裂いた。
「国家権力 機動隊とははっきり対決する以上、逮捕されることも覚悟の上の行動である。御堂筋占拠をかちとれ!(死の九日前の日記)」
「階級闘争において、学園闘争において学問をわが物にしなければならないということは重荷なことだが、私がまずやらねばならぬことだ。一切の人間を信用しない私が唯ひとつ信じているものなのだ。それは。(死の五日前の日記)」。
ここまで彼女を駆り立てたものは時代の持つ雰囲気だったのだろうか? いや、彼女が生まれ持った彼女自身の性質だったのだろうか? というあらゆる詮索は残された日記の文字を追う我々にとって、無意味だろう。またこの時代を生きていない我々には、本当のところは分からないのではなかろうか?
「本当に何もないのだ。雨の中につっ立って、セーターを濡らし髪を濡らし、その滴が顔に流れおちたところで、どうということはない。
何もないのだ。何も起こらないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ。彼が部屋で静かな寝息をたてて眠っているだろうと思ったところで、一体それが何なのか。あるいは彼女といっしょに肉体を結び合っていたところで。もし私が彼といっしょに「燃える狐」の情感をたぎらせていたとしたら。
雨が強く降りだした。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。二時三十分、深夜(死の二日前の日記)」
自殺を図る数日前には、失恋もあったようだ。彼女は、失恋で自殺したのではない。
僕はただ、彼女の、癒しようのなかった深い深い悲しみを、文章の間から滲み出てくるようなある感情を感じるだけだ。それを生の悲しみと言えばあまりに陳腐だが。
彼女が残した詩を引用する。このあまりにすがすがしい詩を読む時、彼女がもうこの世の人間であることを辞めたように僕には思える。これは彼女の日記の一番最後に書かれた詩だ。たぶん生前最後に書き残した。
旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨が良い
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか
原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう
原始林の暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小船をうかべよう
衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう
小船の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
文庫本の扉にある写真は、両肩に垂れる髪、口元と目に浮かべる彼女の笑みを記録している。彼女は、どこかはにかんだような笑みをうかべている。どこにでもいそうな若い女性。清楚な雰囲気さえ漂わせている。
昭和44年6月24日未明、鉄道自殺を図り自ら命を絶った。享年20歳。
僕がこの「二十歳の原点」を読んだのは、27歳のときだった。日雇いのような仕事をして一日一日をどうにか生きていた。友達もなく、せまいアパートで、夜になるとひとり安酒を飲んでは、古本屋で見つけてきた安い文庫本を、片っ端からむさぼるように読んでいた。そして崩れるように眠り、目覚まし時計の音で気がつくと、朝を迎えていた。そんな頃、読んだ本の中の一冊。今時、こんな本をがむしゃらに読む人などいるのだろうか?
一切の人間はもういらない/人間関係はいらない/この言葉は 私のものだ/すべてのやつを忘却せよ/どんな人間にも 私の深部に立ち入らせてはならない/うすく表面だけの 付きあいをせよ/一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが/今の唯一の私の友/人間を信じてはならぬ/己れ自身を唯一の信じるものとせよ/人間に対しては 沈黙あるのみ
(死の五日前に書かれた詩)
1960年代を生きていない僕には到底考えられないが、あの時代の学生運動に参加した人たちの中には、自分たちの言動を意義あるものと思え、考えた人もいただろう。また、その運動が祝祭のように、ただのばか騒ぎのように映った人もいただろう。そして、どこか誰も知らない暗闇の中で、彼女のように目に見えぬ巨大な歯車に押しつぶされてしまったような人たちも、事実いたのだろう。冷たい線路の上に投げ出した小さな暖かい体を、鋼鉄の車輪は、無言で引き裂いた。
「国家権力 機動隊とははっきり対決する以上、逮捕されることも覚悟の上の行動である。御堂筋占拠をかちとれ!(死の九日前の日記)」
「階級闘争において、学園闘争において学問をわが物にしなければならないということは重荷なことだが、私がまずやらねばならぬことだ。一切の人間を信用しない私が唯ひとつ信じているものなのだ。それは。(死の五日前の日記)」。
ここまで彼女を駆り立てたものは時代の持つ雰囲気だったのだろうか? いや、彼女が生まれ持った彼女自身の性質だったのだろうか? というあらゆる詮索は残された日記の文字を追う我々にとって、無意味だろう。またこの時代を生きていない我々には、本当のところは分からないのではなかろうか?
「本当に何もないのだ。雨の中につっ立って、セーターを濡らし髪を濡らし、その滴が顔に流れおちたところで、どうということはない。
何もないのだ。何も起こらないのだ。独りである心強さも寂しさも感じないのだ。彼が部屋で静かな寝息をたてて眠っているだろうと思ったところで、一体それが何なのか。あるいは彼女といっしょに肉体を結び合っていたところで。もし私が彼といっしょに「燃える狐」の情感をたぎらせていたとしたら。
雨が強く降りだした。どうしてこの睡眠薬はちっともきかないのだろう。アルコールの方がよっぽどましだ。早く眠りたい。二時三十分、深夜(死の二日前の日記)」
自殺を図る数日前には、失恋もあったようだ。彼女は、失恋で自殺したのではない。
僕はただ、彼女の、癒しようのなかった深い深い悲しみを、文章の間から滲み出てくるようなある感情を感じるだけだ。それを生の悲しみと言えばあまりに陳腐だが。
彼女が残した詩を引用する。このあまりにすがすがしい詩を読む時、彼女がもうこの世の人間であることを辞めたように僕には思える。これは彼女の日記の一番最後に書かれた詩だ。たぶん生前最後に書き残した。
旅に出よう
テントとシュラフの入ったザックをしょい
ポケットには一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう
出発の日は雨が良い
霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら
そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく
大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう
近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか
原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう
原始林の暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小船をうかべよう
衣服を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう
小船の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう
ISBN:4622045249 単行本 山崎 庸一郎 みすず書房 2001/08 ¥2,520
サンテグジュペリといえば、「星の王子さま」で有名だ。しかし、その作品だけで、彼を理解しようとすることは、難しい。なによりも、作家であるよりも前に彼は、ひとりのパイロットだから。 1940年5月、フランスはナチスドイツの前に瓦解寸前だった。前年から始まった欧州大戦。「奇妙な戦争」の後にやってきたのは、ドイツ軍による電撃的なフランス侵攻だった。
著者、サンテグジュペリは、ある偵察飛行大隊に所属している。彼らの任務は、ドイツ戦車部隊を発見して、その位置を報告する事にある。しかし、制空権はドイツ側にあり、偵察飛行は非常に困難な戦局。また、発見したところで、なにになるのか? もはやフランスにはドイツ戦車部隊を攻撃できる戦力はなく、また、仮に発見したところで、その情報を伝達する手段さえ、寸断されている状態である。そのような絶望的な状況の中、連日、偵察飛行に出動する戦友の大半は、再び戻ってくる事はない。
そんな中、サンテグジュペリに出動命令がかかる。 目的も、意味も、価値もない任務。そのような状況におかれた彼(彼ら)が、操縦桿を握る。
M.M.ポンティが「知覚の現象学」の末尾をこの書からの引用で締めくくっているのは非常に興味深い。
「君の息子が炎に包まれていたら、君は彼を助け出す事だろう……もし障碍物があったら、肩で体当たりをするために君は君の肩を売り飛ばすだろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ……君は自分を身代わりにする……君というものの意味がまばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明だ……人間というものはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。」
サンテグジュペリといえば、「星の王子さま」で有名だ。しかし、その作品だけで、彼を理解しようとすることは、難しい。なによりも、作家であるよりも前に彼は、ひとりのパイロットだから。 1940年5月、フランスはナチスドイツの前に瓦解寸前だった。前年から始まった欧州大戦。「奇妙な戦争」の後にやってきたのは、ドイツ軍による電撃的なフランス侵攻だった。
著者、サンテグジュペリは、ある偵察飛行大隊に所属している。彼らの任務は、ドイツ戦車部隊を発見して、その位置を報告する事にある。しかし、制空権はドイツ側にあり、偵察飛行は非常に困難な戦局。また、発見したところで、なにになるのか? もはやフランスにはドイツ戦車部隊を攻撃できる戦力はなく、また、仮に発見したところで、その情報を伝達する手段さえ、寸断されている状態である。そのような絶望的な状況の中、連日、偵察飛行に出動する戦友の大半は、再び戻ってくる事はない。
そんな中、サンテグジュペリに出動命令がかかる。 目的も、意味も、価値もない任務。そのような状況におかれた彼(彼ら)が、操縦桿を握る。
M.M.ポンティが「知覚の現象学」の末尾をこの書からの引用で締めくくっているのは非常に興味深い。
「君の息子が炎に包まれていたら、君は彼を助け出す事だろう……もし障碍物があったら、肩で体当たりをするために君は君の肩を売り飛ばすだろう。君は君の行為そのもののうちに宿っているのだ。君の行為、それが君なのだ……君は自分を身代わりにする……君というものの意味がまばゆいほど現れてくるのだ。それは君の義務であり、君の憎しみであり、君の愛であり、君の誠実さであり、君の発明だ……人間というものはさまざまな絆の結節点にすぎない、人間にとっては絆だけが重要なのだ。」
ISBN:4001140012 単行本(ソフトカバー) 内藤 濯 岩波書店 2000/06 ¥672
もしも、あなたが、サンテグジュペリを読もうとお考えなら、迷わず「戦う操縦士」から読んでいただきたいことは、以前に書いた。意味も価値もない任務に命をかけて赴く人間を描いた作品。そこには、人間の実存がむき出しになっている。しかし、「戦う操縦士」はあまりに不遇だ。まず、タイトルが読む気を誘わない。次に、「人間の大地」や「夜間飛行」が宮崎駿のイラストを表紙に持つ新潮文庫から、簡単に入手できるのに、この本は、今では文庫本で入手できない。みすず書房のサンテグジュペリコレクションでしか入手できないのだ。そして、サンテグジュペリといえば、たいていの人は、「ああ、星の王子さまの人ね」、とくる。
いや、話を「星の王子さま」に戻そう。
原題は「リトルプリンス」。小さな王子さまの意だが、日本では「星の王子さま」と呼ばれる。
砂漠に不時着したあるパイロットが、見渡す限りの砂の海のまっただ中で、唐突にであう子供、それが星の王子さまだった。物語は、子供の心を内に秘めたそのパイロットによって語られる。
王子さまは自分の小さな星に、愛するバラの花を残して、旅に出る。バラの花はあまりに我がままだったから。この我がままで、あまりに奔放なバラの花は、サンテグジュペリの妻コンスエロを表しているとも言われる。王子さまはいくつもの星を巡り、何人もの風変わりな人物に会う。商人、飲んだくれなどなど。そして、最後に地球にやってくる。
地球で、彼は一匹のきつねに出会う。きつねは王子さまのことが、大好きだ。しかし、王子さまにあまり時間は残されていなかった。もう彼に会うことができないと知ったきつねは、王子さまにひとつの言葉を贈る。「たいせつなものは目には見えない」と。
このあまりに有名な言葉は、この童話が書かれた1944年よりも、現代に生きる我々に響く言葉ではないだろうか? 「情報」が満ちあふれ、あらゆるものが数字で置き換えることが可能である時代。「情報」を判断材料だと考える我々の時代に。
余談だが、この童話が書かれた60年前、「いまだかつて、値段のつくもので価値のあったものはない」とニーチェは、書いている。
たいせつなものとは何か? 愛するとは? 価値とは? を自分で考えることができて、それを誰かと分かち合うためには、行動し言葉で考え、言葉で考え行動しなくてはならない。
サンテグジュペリが作家であると同時に、彼はひとりのパイロットであったように。
「僕は死んだように見えるかもしれないけれど、ほんとうはそうじゃないんだ」という言葉を残して、王子さまは砂漠に消える。
そして、サンテグジュペリも、これを書いた数ヶ月後に、偵察機「ライトニング」とともにこの世界から消えてしまう。
もしも、あなたが、サンテグジュペリを読もうとお考えなら、迷わず「戦う操縦士」から読んでいただきたいことは、以前に書いた。意味も価値もない任務に命をかけて赴く人間を描いた作品。そこには、人間の実存がむき出しになっている。しかし、「戦う操縦士」はあまりに不遇だ。まず、タイトルが読む気を誘わない。次に、「人間の大地」や「夜間飛行」が宮崎駿のイラストを表紙に持つ新潮文庫から、簡単に入手できるのに、この本は、今では文庫本で入手できない。みすず書房のサンテグジュペリコレクションでしか入手できないのだ。そして、サンテグジュペリといえば、たいていの人は、「ああ、星の王子さまの人ね」、とくる。
いや、話を「星の王子さま」に戻そう。
原題は「リトルプリンス」。小さな王子さまの意だが、日本では「星の王子さま」と呼ばれる。
砂漠に不時着したあるパイロットが、見渡す限りの砂の海のまっただ中で、唐突にであう子供、それが星の王子さまだった。物語は、子供の心を内に秘めたそのパイロットによって語られる。
王子さまは自分の小さな星に、愛するバラの花を残して、旅に出る。バラの花はあまりに我がままだったから。この我がままで、あまりに奔放なバラの花は、サンテグジュペリの妻コンスエロを表しているとも言われる。王子さまはいくつもの星を巡り、何人もの風変わりな人物に会う。商人、飲んだくれなどなど。そして、最後に地球にやってくる。
地球で、彼は一匹のきつねに出会う。きつねは王子さまのことが、大好きだ。しかし、王子さまにあまり時間は残されていなかった。もう彼に会うことができないと知ったきつねは、王子さまにひとつの言葉を贈る。「たいせつなものは目には見えない」と。
このあまりに有名な言葉は、この童話が書かれた1944年よりも、現代に生きる我々に響く言葉ではないだろうか? 「情報」が満ちあふれ、あらゆるものが数字で置き換えることが可能である時代。「情報」を判断材料だと考える我々の時代に。
余談だが、この童話が書かれた60年前、「いまだかつて、値段のつくもので価値のあったものはない」とニーチェは、書いている。
たいせつなものとは何か? 愛するとは? 価値とは? を自分で考えることができて、それを誰かと分かち合うためには、行動し言葉で考え、言葉で考え行動しなくてはならない。
サンテグジュペリが作家であると同時に、彼はひとりのパイロットであったように。
「僕は死んだように見えるかもしれないけれど、ほんとうはそうじゃないんだ」という言葉を残して、王子さまは砂漠に消える。
そして、サンテグジュペリも、これを書いた数ヶ月後に、偵察機「ライトニング」とともにこの世界から消えてしまう。
イラクの中心で、バカとさけぶ―戦場カメラマンが書いた
2005年5月24日 読書
ISBN:4776201321 単行本 橋田 信介 アスコム 2004/01 ¥1,575
橋田信介さんが、亡くなられてから一年が経とうとしている。著書「イラクの中心で、バカとさけぶ」は、彼が亡くなる前に刊行されて、2004年の1月には書店の店頭に並んでいたはずだ。僕も近所の書店で、偶然見かけ、そのユニークな書名と、裏表紙に映っている怪しい風貌の戦場カメラマンの姿が目に焼き付いていた。まさかその数ヶ月後に連日テレビで、橋田さんの名前が流れようとは夢にも思わなかったが。
この本の著者、橋田信介さんは、ベトナム戦争の時から戦場カメラマンを続けている筋金入りのジャーナリストである。しかし、僕は、彼の著書を読んでみて、こんな風に思った。
誰もが、戦場になんか行きたくないが、できれば安全なところで、どんぱちやっているところは、見てみたい。そんな人たちの欲求を満たしてやるかのように、彼(彼ら?)、戦場カメラマンは、危険を覚悟で、カメラをまわし続ける。誰よりも先に戦場のすごい光景を撮り、世界に流してやるという欲望。それが撮れなかったら、彼らには一円だってお金なんぞ入ってきやしない。考えてみれば、やくざな商売である。そして、彼らのような人間たちには、どこか心の中に伺い知れない闇を隠し持っていないと、こんな商売を一生続けることなんてできやしないだろう。
橋田さんが亡くなられた時、彼の映像が数多く流れていた。その中で特に印象的だったのが、銃撃と爆撃が始まり、慌てふためき壁の裏に逃げ、耳を塞ぎ、自分がおびえている様子を、同行したカメラマンに撮らせていたことだ。不思議に思った。なぜそのような様子を残そうとするのだろうか?
橋田さんは知っていたのではなかろうか? いくつもの死線をかいくぐって来た人間でないと知り得ない、人間の心の強さと弱さ、そしてやさしさを。
非戦、反戦で書かれたイラク戦争関連の本は多い。また、フセインの独裁体制を安易に批判し、イラク戦争を民主主義のための戦争だとする書物もある。しかし、この本には、イデオロギーに左右されず、自分の肉眼で世界を見据えた男が見たイラク戦争が描かれている。
僕はこういう人間の書くことを信じる。
橋田信介さんが、亡くなられてから一年が経とうとしている。著書「イラクの中心で、バカとさけぶ」は、彼が亡くなる前に刊行されて、2004年の1月には書店の店頭に並んでいたはずだ。僕も近所の書店で、偶然見かけ、そのユニークな書名と、裏表紙に映っている怪しい風貌の戦場カメラマンの姿が目に焼き付いていた。まさかその数ヶ月後に連日テレビで、橋田さんの名前が流れようとは夢にも思わなかったが。
この本の著者、橋田信介さんは、ベトナム戦争の時から戦場カメラマンを続けている筋金入りのジャーナリストである。しかし、僕は、彼の著書を読んでみて、こんな風に思った。
誰もが、戦場になんか行きたくないが、できれば安全なところで、どんぱちやっているところは、見てみたい。そんな人たちの欲求を満たしてやるかのように、彼(彼ら?)、戦場カメラマンは、危険を覚悟で、カメラをまわし続ける。誰よりも先に戦場のすごい光景を撮り、世界に流してやるという欲望。それが撮れなかったら、彼らには一円だってお金なんぞ入ってきやしない。考えてみれば、やくざな商売である。そして、彼らのような人間たちには、どこか心の中に伺い知れない闇を隠し持っていないと、こんな商売を一生続けることなんてできやしないだろう。
橋田さんが亡くなられた時、彼の映像が数多く流れていた。その中で特に印象的だったのが、銃撃と爆撃が始まり、慌てふためき壁の裏に逃げ、耳を塞ぎ、自分がおびえている様子を、同行したカメラマンに撮らせていたことだ。不思議に思った。なぜそのような様子を残そうとするのだろうか?
橋田さんは知っていたのではなかろうか? いくつもの死線をかいくぐって来た人間でないと知り得ない、人間の心の強さと弱さ、そしてやさしさを。
非戦、反戦で書かれたイラク戦争関連の本は多い。また、フセインの独裁体制を安易に批判し、イラク戦争を民主主義のための戦争だとする書物もある。しかし、この本には、イデオロギーに左右されず、自分の肉眼で世界を見据えた男が見たイラク戦争が描かれている。
僕はこういう人間の書くことを信じる。