ISBN:448852205X 文庫 福永 武彦 東京創元社 2000/00 ¥798
先日、朝日新聞を読んでいると、こんな記事があった。
「詩は死んでなんかいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。(略)自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバは不気味なリアリティを伴っており(略)、痴呆症の老人たちによるダダイズム的な妄言、池袋のアパートで餓死した母子の日々の暮らしを綴った母の日記などが紹介されてきたが、極めつけは処刑日の朝、死刑囚が透徹した目で詠んだ辞世の句だ」(2005.5.25朝日新聞文芸時評 島田雅彦)
全国紙の文芸時評にこんな記事が載る。書いているのは日本文学の旗手、島田雅彦氏。20年前ならさしずめアングラといわれるたぐいの内容の物が、朝日新聞に掲載されていることに僕はひどく驚くと同時に、アングラが今や陽の光を浴び、地上を闊歩している不思議なん光景を頭に描いた。上の記事を言い換えるなら、子どもの落書きもピカソの作品も同じような物だといっているのとどこが違うのだろうか? むしろ予定調和の外にある子どもの落書きを賞賛しているかのようだ。
エドガー・アラン・ポーは推理小説、怪奇小説の作家として日本では有名だろう。モルグ街の殺人、黄金虫など数々の名作を残している。が、彼には他に二つの顔があることは、あまり知られていない。ひとつは雑誌編集者としての顔。もう一つはフランス象徴派の詩人たちに多大な影響を与えた偉大なる詩人としての顔である。
「構成の原理」と題された論文は、彼が自身の詩「大鴉」ができるまでの舞台裏を綴ったものだ。これは、当時の詩の世界を引っくり返す作品である。ボードレールは「詩の誕生」と改題して、フランス語に逸早く翻訳して、紹介したぐらいなのだ。
それまでの詩とは、詩の神様が突然詩人の頭上に舞い降り、まるで降霊術師が詠うかのように、誕生するものだと考えられていた(少々おおげさな表現だが)。しかし、ポーは、その常識を180度ひっくりかえしてしまった。詩とは、まるで建築物のように完璧な設計図をひき、構成されるものであるとしたのだ。この考えは、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーとつづくフランス象徴派に脈々と受け継がれていく。
実際「大鴉」を読んだ後に、「構成の原理」を読んでいただきたい。なぜこの詩が100行であるのか? なぜ「Nevermore(もはやない)」という言葉が繰り返されるのか? なぜ登場する動物が鴉でなくてはならないのか? が分かるのだ。
このあまりに巨大な建築物の前で、「自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバ」は、どんなリアリティをもつのであろうか?
先日、朝日新聞を読んでいると、こんな記事があった。
「詩は死んでなんかいない。死んでいるのは現代詩業界だけだ。(略)自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバは不気味なリアリティを伴っており(略)、痴呆症の老人たちによるダダイズム的な妄言、池袋のアパートで餓死した母子の日々の暮らしを綴った母の日記などが紹介されてきたが、極めつけは処刑日の朝、死刑囚が透徹した目で詠んだ辞世の句だ」(2005.5.25朝日新聞文芸時評 島田雅彦)
全国紙の文芸時評にこんな記事が載る。書いているのは日本文学の旗手、島田雅彦氏。20年前ならさしずめアングラといわれるたぐいの内容の物が、朝日新聞に掲載されていることに僕はひどく驚くと同時に、アングラが今や陽の光を浴び、地上を闊歩している不思議なん光景を頭に描いた。上の記事を言い換えるなら、子どもの落書きもピカソの作品も同じような物だといっているのとどこが違うのだろうか? むしろ予定調和の外にある子どもの落書きを賞賛しているかのようだ。
エドガー・アラン・ポーは推理小説、怪奇小説の作家として日本では有名だろう。モルグ街の殺人、黄金虫など数々の名作を残している。が、彼には他に二つの顔があることは、あまり知られていない。ひとつは雑誌編集者としての顔。もう一つはフランス象徴派の詩人たちに多大な影響を与えた偉大なる詩人としての顔である。
「構成の原理」と題された論文は、彼が自身の詩「大鴉」ができるまでの舞台裏を綴ったものだ。これは、当時の詩の世界を引っくり返す作品である。ボードレールは「詩の誕生」と改題して、フランス語に逸早く翻訳して、紹介したぐらいなのだ。
それまでの詩とは、詩の神様が突然詩人の頭上に舞い降り、まるで降霊術師が詠うかのように、誕生するものだと考えられていた(少々おおげさな表現だが)。しかし、ポーは、その常識を180度ひっくりかえしてしまった。詩とは、まるで建築物のように完璧な設計図をひき、構成されるものであるとしたのだ。この考えは、ボードレール、マラルメ、ヴァレリーとつづくフランス象徴派に脈々と受け継がれていく。
実際「大鴉」を読んだ後に、「構成の原理」を読んでいただきたい。なぜこの詩が100行であるのか? なぜ「Nevermore(もはやない)」という言葉が繰り返されるのか? なぜ登場する動物が鴉でなくてはならないのか? が分かるのだ。
このあまりに巨大な建築物の前で、「自分が詩人だとも思ったこともないアウトサイダーたちが投げかけてくる直球のコトバ」は、どんなリアリティをもつのであろうか?
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